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 聖地エルサレムの
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まちを歩けば棒にあたる
聖地エルサレムの素顔に出会う-page06
●聖地エルサレムの素顔に出会う30
「皮肉なスローフード」

2004.6.10
 世界各地で地元の食材や食文化を生かした「スローフード」が注目を集めている。紛争下のパレスチナでは、外出禁止令や移動制限などで人々は買い物もままならず、伝統的な食文化に回帰せざるを得ない状況が続いている。イスラエルとの和平実現に期待が高まった1990年代前半、米国などで事業に成功したパレスチナ人が凱旋して投資を行い、ヨルダン川西岸のラマラなどの都市部にはフライドチキンやハンバーガー、アイスクリームをはじめとしたファストフード店がお目見えした。手軽な西洋の食文化がパレスチナの伝統的な食文化を脅かす恐れもあったが、皮肉なことに戦火が人々を伝統食へと引き戻している。
 人間は生まれ育った土地で作られた食べ物に愛着を感じ、一生、その味に想いを寄せるものだ。特に太陽に恵まれた魅力的な食材の溢れるパレスチナの人たちは、慣れ親しんだ食べ物に対する愛着が人一倍強いようである。
 戦火の混乱を逃れて米国やカナダ、欧州に移り住んだ人も少なくなく、遠い異国の地に暮らすパレスチナ人たちは、「祖国」の味に想い焦がれる。そんな親戚や友人に向け、この地の人々は、祖国をいつまでも忘れないでほしいとの願いを込め、パレスチナならではの食材を海外に発送する。オリーブオイルなど重いものはなかなか送ることができないが、スマックと呼ばれる甘酸っぱいスパイスや、ハーブのタイムやスパイスを混ぜたザータル、乾燥させたモロヘイヤ、塩漬けオリーブの実などを届けている。
アプリコット
アプリコット
 時には何年ぶりかで親戚や家族がパレスチナに戻ってくる。知人のパレスチナ人の親戚がアメリカから夏期休暇を利用して一時訪問することになり、東エルサレムに住む知人の家族は受け入れ準備を進めている。この季節には初夏の陽光を受けてブドウが勢い良く葉を伸ばす。パレスチナの代表的な料理の1つとして、このブドウの葉っぱを使ったワラク・アイナブがある。米と羊などのひき肉ブドウの葉で包み込み、トマトやレモン、シナモン、オールスパイスなどで味付けして煮込むという素朴な料理だ。ブドウの葉っぱを取りに、別荘のあるエルサレム近郊のベイトジャラに行くという知人に同行した。
セージの花
セージの可憐な薄紫色の花
 エルサレムからベイトジャラまでは通常なら車で20分前後だ。しかし、紛争のため、その間にイスラエル軍の検問所が設けられており、なかなか通行の自由は与えられない。検問所の1つを迂回して自動車を乗り捨て、徒歩で丘を越えてタクシーに乗り継ぎ、ようやく知人の別荘に到着した。
 この時期はフルーツが出始める魅惑の季節だ。普通、日本のように太陽に比較的乏しい地で果物を庭で素人栽培すると、甘みがなくとても食べられるような代物はできない。しかし、強烈な太陽が連日照り付けるこの地では、どの庭先にも果樹が植えられ、日本人から見ると奇跡のようにたわわに実り、味も素晴らしい。この時期、「ミシュミシュ」と呼ばれるアプリコットや桑の実「トゥートゥ」が初夏らしい爽やかな甘さを感じさせてくれる。
 田舎に家を持ち、数々の果樹を植えて鶏を放し飼いにして、畑から取ってきたばかりの枝豆を釜で茹で上げ、縁側でビールを飲みながら口に放り込む−。こんな生活を理想としているのだが、現実との落差はなぜこうも大きいのかと自らの不遇を嘆く。
 ところが、パレスチナ人はこのような理想の生活を手にしていることが少なくない。知人の家には、家族が1年で消費するには十分過ぎるほどの量のオリーブオイルが採れるオリーブの木が植えられ、果物も豊富だ。アプリコットをはじめ、サクランボ、柿、レモン、ビワ、イチジク、ザクロ、オレンジ、ブドウ、アーモンド、サボテンの実であるサブラなどが実を結ぶ。そのほか、マラミーヤと呼ばれるチャイに入れるセージやミント、バジルなどのハーブもある。
 隣の家では、羊や鶏が走り回る。また別の家では、ミツバチの巣箱を設けて蜂蜜を採取している。この蜂蜜を分けてもらおうとしたのだが、知人が新たにコンクリート製の塀を作り始め、この壁がミツバチの行動を妨げて蜂蜜作りに影響を及ぼし、これが原因で隣人との関係がぎくしゃくしているという。自分の土地に塀を作るのは勝手だと思うが、隣人は納得が行かないようだ。このため、「蜂蜜を分けて下さい」とは言い出せない状況になっている。
アーモンドの実  淡い紫色のセージの花の蜜を吸うミツバチから採れる蜂蜜−。その味への想いは募る。隣人との関係改善を願うばかりだ。養蜂は将来的にやってもたいことの1つで、蜂蜜づくりはなかなか奥が深い。日本でも蜂蜜はブームになっているが、そばの花から採れた蜜は茶色で香ばしい濃厚な味だし、蓮華から採れた蜂蜜は、爽やかな甘みを持つ。セージの蜜から採れた蜂蜜は、セージのようにほろ苦いハーブの香りがするのだろうか。
 さて、ブドウの葉っぱだが、適度な大きさに育った、固くなる前のやさしい緑色をした葉を選ぶ。既に小さなブドウが結実しており、葉が勢い良く伸びている。最初は輝きに満ちた緑色を放つが、次第に落ち着いた色合いに変化していく。太陽に照らされて大成する前の柔らかな葉っぱをいただくという感じだ。ブドウの葉っぱは、5月から7月にかけてが旬だ。軽く茹でて冷凍保存したり、塩漬けにしたりして、この時期に1年分を確保する。いつも通うエルサレム旧市街でも農婦が大量のブドウの葉っぱを売っている。
 国を持てないパレスチナ人は、土地に対する愛着が人一倍強く、使われていない荒地にもイスラエル人に取られないようオリーブや果樹を植える。さらに、紛争の長期化によって経済的にも苦境に立たされており、自給自足に徹するというのが基本になっている。長閑に見える田園の風景はゆとりが生み出したものではなく、必要に迫られた結果とも言え、人々の表情も曇りがちだ。この紛争はイスラエル建国の1948年以来続いているわけで、今後、少なくとも20年は解決しないとの観測も流れている。初老のパレスチナ人に「ジャーナリストとしてこの紛争の解決への見通しはどうだろうか」と聞かれることもあるが、答えに窮するばかりだ。皮肉なことに、パレスチナのスローフードはしばらく健在と言えそうだ。


■キュフタ・ワラク・アイナブ
(葡萄の葉っぱの肉詰め)


材料:トマト
   羊肉の挽肉(シナモン、オールスパイス、パセリなどを混ぜる)
   オリーブオイル
   レモン

1、挽肉とスパイス、塩コショウを混ぜる。
2、葡萄の葉っぱを用意する。
  採取したばかりのものは、熱湯に漬けてしんなりさせる。
3、葉っぱの真ん中に肉を置き、包み込む。
4、金属製の容器に並べ、オリーブオイル、スライスしたトマト、
  水を1カップほど入れる。
5、約1時間オーブンで加熱する。
6、レモン汁を入れて10分程度再度加熱する。
7、水気がなくなったら完成。
●聖地エルサレムの素顔に出会う29
「地物野菜」


2004.5.10
 エルサレムっ子の台所であるマハネエフダ市場から足が遠のいて久しい。エルサレムに住み始めた頃には、イスラエルの新鮮な野菜や果物に魅了され、毎日のように通っていたが、今は月に数回、鮮魚店や自然食品店に行くだけだ。自爆テロに巻き込まれるのを恐れているというのも原因の一つである。だが、それ以上に、人との触れ合いや野菜に質や鮮度を求めるようになったためだ。
 「これはバラディーだ」。城壁に囲まれたエルサレム旧市街の路地では、周辺のヨルダン川西岸からやってきたパレスチナ人の農婦が露地栽培による季節季節の野菜やオリーブなど自慢の品を並べている。品定めしたパレスチナ人が見切りを付けて立ち去ろうとする瞬間、売り手の女性は、こんな決め台詞を吐く。ちょっと値段が高いという客に対しても「バラディーだ」と誇りに満ちた表情で言う。バラディーは「地物」と訳せるだろうか。地元で生産されたものという意で、大量生産品に比べて2倍前後と高価なのも特徴だ。野菜をはじめ、羊肉やヨーグルト、チーズ、卵などの酪農製品に対して使われる。
 一方、雨の少ないイスラエルは、砂漠農業で最先端を行く国だ。夏には50度近くに達するネゲブ砂漠を縦貫する道路沿いには、キブツ(農業共同体)のビニールハウスが目に付く。穴の開いたビニールチューブから点滴のように水が土に滲み込み、わずかな水でトマトやキュウリなどの野菜や果物が栽培されている。農業は機械化・高度化され、畑も日本に比べてとても大きい。オレンジなどのフルーツや花は、イスラエルの有力な輸出品となっている。
 これに対して、パレスチナの農業は労働集約型だ。コストの掛かる機械を投入して生産効率を上げるより、人件費の安い労働者を使う方が生産費が安く済む。さらに、エルサレム旧市街で農婦が売る野菜のように、個人が日々の生活費を稼ぐために栽培される野菜もある。イスラエルと比較すれば、より原始的と言えるのだが、味はイスラエルのものより良いと思う。イスラエルの野菜は、悪く言えば、工業製品のようで季節感が少なく、画一的で個性を欠く。知り合いのパレスチナ人も「イスラエルの野菜は味がない」と自慢げに話す。
イチゴを売る女性
ガザ地区のモスク前に地物イチゴを売る女性
ヒヨコマメ
スナックとしてオーブンで焼いたヒヨコマメ
 そういう訳で、今ではパレスチナの野菜を贔屓にしている。特に顔の見えるエルサレム旧市街の農婦が売る野菜は、今の生活に欠かすことができない存在だ。健康づくりも兼ね、朝早く起きた時には、万歩計を付け、自宅からエルサレム旧市街の農婦が野菜を売る路地を散歩コースに組み込み、1時間半ほど歩く。歩数は1万歩近くに達するから、理想とされる1日の歩数を朝の散歩だけで確保する
 計算だ。ただ歩くのは退屈なもので、バラディーの野菜がない限り、挫折したかもしれない。
 路地栽培なので、野菜の種類を見ていると、季節の移り変わりを感じることができる。2カ月ぐらい前には、カリフラワーを味わうことができた。朝もいできたばかりとみえ、朝露に濡れたカリフラワーは固く締まり、塩茹ですると、透明にも見えるような輝きを見せ、柔らかく強い甘みを感じさせた。2回ほど食べただけで姿を消してしまい、あの味を楽しむためには、冬まで待つしかないようだ。大規模生産されたカリフラワーが今も出回っているが、少し疲れたカリフラワーに手を出す気にはならない。その後、ラウズと呼ばれるアーモンドの若い実やソラマメ、グリーンピース、ヒヨコマメ、ズッキーニと季節は移り、今はモロヘイヤやオクラ、ビワなどが本格的な夏の到来を告げている。顔なじみの女性は今朝、マハシーと呼ばれるご飯と肉を包み込む料理に使うブドウの葉っぱだけを売っていた。そのうち、アプリコットやブドウも顔を出すに違いない。名も知らない野菜が登場することも少なくなく、なかなか楽しみなのである。
 ただ、露地栽培で生産は安定しておらず、欲しい野菜を求めて足を棒にして、うろうろすることもある。納豆用のネギが欲しいときや、タッブーレと呼ばれるパセリなどの野菜や轢き割り小麦のサラダが食べたいときなど、目を皿にしてネギやパセリを探すことになる。結局見つからずに、ネギなしの味気ない納豆を食べたり、料理を変更したりすることもある。
 さらにある時には、エルサレム旧市街にいるはずの農婦の姿がないこともあった。イスラエルの祝祭日の前や、自爆テロが起きた直後にイスラエルはテロ警戒のため、ヨルダン川西岸の封鎖を強化してパレスチナ人のエルサレムへの立ち入りを規制する。このため、野菜売りの農婦もエルサレム旧市街に来れなくなるのだ。そんな日は、あの女性は何をしているのだろうかとの想いを胸に、手ぶらで家に帰ることになる。顔見知りの農婦に「どこから来ているの」と聞くと、エルサレム南郊に位置するベツレヘムの郊外から来ているとの答えが返ってきた。
 味もさることながら、人々の喜怒哀楽を感じさせるバラディーの野菜は、我が家の食卓の主役を務めている。
●聖地エルサレムの素顔に出会う28
「クナーフェ逍遥」


2004.5.8
 世界を歩いていて楽しいなあと思うのは、多様な価値観に出会えることだ。それぞれの社会や土地には、それぞれの「世間」という目には見えない価値観が存在し、人々は良くも悪くもそんな枠の中で生活している。当然、それぞれに時間の流れも違う。パレスチナを歩いていると、日本の時間の流れと比較して随分ゆっくりしているなあと感じる。イスラエルはむしろ日本に近いかもしれない。記者という分秒を争う世界に身を置いているのだが、彼らには到底、この感覚は理解してもらえないと思う。「郷に入っては郷に従え」の格言通り、パレスチナでは、パレスチナ時間に身を委ねることにしている。
 エルサレムからヨルダン渓谷への道は、地底に落ち込むような下り坂の連続だ。標高800メートルからマイナス350メートルまで下るのだから確かにそうなのだ。1カ月前に通ったときには、緑の絨毯が敷き詰められていたが、灼熱の太陽に焼かれて土砂はテラコッタのように焼き締まり、茶色の礫砂漠と化している。羊の群れの動きも一段と緩慢になっているようだ。今回ハンドルを握っているのは、ヨルダン川西岸中部の都市ナブルスに行くためである。イスラエル占領下のパレスチナには数百の軍検問所があり、自由に移動するのは難しい。ヨルダン渓谷に迂回してナブルスを目指す。ナブルスは、周辺地域の経済の中心地であるほか、歴史も古いため、バクラワやクナーフェと呼ばれる強烈に甘いアラブ菓子の「聖地」として知られている。金細工でも有名だ。エルサレムやエリコなど各都市の菓子職人もナブルス出身者がほとんどを占める。
 だが、ナブルスからは数多くの自爆テロ犯がイスラエルに出撃。パレスチナの中でも最も激戦の続く土地となっている。カスバ(旧市街)の狭い路地や難民キャンプを駆け抜けるイスラエル軍の戦車や軍用ジープに、パレスチナの若者が石や火炎瓶の雨あられを降り注ぎ、武装組織の活動家はカラシニコフ機関銃から銃弾を浴びせる。イスラエル軍部隊もこれに応戦、銃弾が飛び交い、記者や市民、救急隊員らも巻き添えとなって命を落としている。イスラエル紙は「ナブルスで甘いのはクナーフェだけ」と洒落た見出しを付けたが、惨状を物語りつつも、人々の逞しさを感じさせた。そんなナブルスのクナーフェの味を確かめるのが目的だった。
子供たち
ムハンマドさんと子供たち
 ヨルダン渓谷を1時間ほど走り、渓谷に別れを告げて左に折れ、西岸の大地を目指す。道が走る西岸の渓谷は、地下水に恵まれ、周辺の茶色の乾いた大地と木々や畑の緑が対比をなし、天国に登る道のようである。しばらく行くとイスラエル軍検問所があり、のどかなドライブ気分は吹き飛んだ。兵士は「イスラエルの黄色のナンバープレートではパレスチナ自治区に入れない」と言い、ナブルスへの立ち入りを禁止する気配だ。「俺は市民じゃない。ジャーナリストの移動の自由を制限する気か」と強く言うと、勝手にしなといった感じで、「オッケー。ゴー」と許可が出た。ほっとしつつも、身が引き締まる。行き交う車はすべて青字のパレスチナのナンバーを付けた車だ。西岸にはユダヤ人入植地が多数あり、彼らの乗る黄色ナンバーのイスラエルの車は、活動家の狙撃の格好の標的だ。愛車のフォルクスワーゲン・ポロには、報道関係であることを示す「TV」と大きくテープを四方に張ってあるとは言え、装甲車ではないし、銃撃を受けたらひとたまりもない。「万が一」という悪夢が頭をよぎる。この地は、天国と地獄が紙一重なのである。パレスチナ人の移動は厳しく制限されており、検問所があるため、道先案内人としてのパレスチナの知人も連れてくることはできなかった。孤独な1人旅であることを痛感させられた。
レバー料理
ヤギのレバー料理
 しかし、のどかな景色だ。比較的水に恵まれているようで、ズッキーニやナス、キュウリ、トマト、オレンジなどの果物類が茂る畑や、小麦の茶色の実がたわわになった平原で人々が働いている。まあ、夜でもないし、真昼間から活動家も狙撃には繰り出してこないだろうと自分に言い聞かせ、風景を楽しむが、やはりどこか落ち着かない。こんな気持ちで走っていると、髭をたくわえた人柄の良さそうなパレスチナのおじさんがヒッチハイクをしているのに出会った。これは「渡りに船」との思いで止まる。格好の道先案内人だ。「サラムーアレイクム」。だが、話してみると、どうやら、おじさんの目的地はナブルスではないようだ。西岸北端のパレスチナ自治区ジェニン近郊の村の自宅に帰るところだという。良かったら家に来て昼飯でも食べ、時間があれば、泊まっていけばいいと寛大な申し出。いつもながら実にパレスチナ人は大らかだ。おじさんの村を通ってナブルスに行くも良し。おじさんの誘いに身を委ねて投宿するのも、また可也。パレスチナでは計画に拘るなというのが、楽しく過ごす要点の1つだと思う。
 ナブルスのクナーフェに後ろ髪を引かれる想いもあったが、ジェニンも思い出の地なのである。鮮烈な「あの日」を今も忘れることはない。
 「タタタタタタタ・・・」。上空をイスラエル軍の武装ヘリコプター「アパッチ」が旋回する中、オリーブの木陰に身を隠していた。エルサレムに赴任して確か3日目だっただろうか。パレスチナ情勢は1つの山を迎えていた。パレスチナ過激派が起こしたイスラエル国内での自爆テロを受け、イスラエル軍は西岸に大侵攻。細い路地が入り組むジェニン難民キャンプでは、特に激しい戦闘が起きていた。侵攻したイスラエル軍部隊に対し、武装勢力側は屋根の上などから待ち伏せ攻撃を加え、10人以上の軍兵士を殺害。イスラエル軍にとっては非常に大きな損失で、軍は戦車や巨大な装甲ブルドーザーを投入し、路地の両側に建つ家屋を破壊しながら作戦を展開した。イスラエル軍は「軍事封鎖区域」に指定。報道関係者や国連職員の立ち入りを規制し、情報は錯綜した。パレスチナ自治政府高官は「500人が殺害される大虐殺が起きている」と語っていた。
 右も左も分からない中だったが、防弾チョッキを背負い、ジェニンを目指した。4月初旬。既に日差しはきつく、汗がじわじわと滲んでくる。ジェニンから10キロ前後離れた近郊の村からなら、ジェニンに入れる可能性があるとの情報がマスコミの間で流れていた。現地に着き、数時間様子を伺っていたが、イスラエル軍兵士が警戒して身動きが取れるようには見えなかった。諦めかけたときだった。ジャーナリストや活動家の一団十数人が兵士の警戒網をかいくぐり、オリーブの林へと歩を進め始めた。同行した通訳に「命の保障はないが行くか」と言うと、「うん」という返事。銃撃音が響く中、ヘリコプターなどを警戒しながら、身をかがめてオリーブ林を進んでいった。花々が咲き乱れ、平和の象徴であるオリーブの木々に囲まれ、現実とのギャップを咀嚼するのに苦しんだ。
 しばらく行くと別の村に入り、ここからタクシーに分乗。15分ぐらいでジェニン難民キャンプに隣接する村に着いた。そこからはさらに徒歩だ。ごみの回収も滞り、悪臭が鼻を突く。飼い主に置き去りにされた犬がうつろな目で彷徨し、飢え死にしたとみられる鶏や羊が身を横たえていた。ようやく到達した難民キャンプにはイスラエル軍の戦車や装甲車が展開し、散発的に銃声や爆発音が響く。われわれとほぼ同時に到着した国連の食糧配布車両に、いきり立ったパレスチナ群集が襲い掛かり、石を持っての殴り合いに発展した。幸い流血を見ることはなかったが、住民の怒りと苛立ちが頂点に達していることを物語っていた。
分離フェンス
ジャルブーン村を走る分離フェンス
 装甲車のイスラエル軍兵士がわれわれ一団を威嚇。「軍事封鎖区域だから立ち入りるな」と怒鳴りつけた。平和活動家の1人が装甲車の前に立ちはだかり、「殺すなら殺してみろ」「イスラエルに立ち入りを制限する権利があるのか」と息巻いた。ひと悶着するうちに兵士も諦めたのか、一団は難民キャンプになだれ込んだ。
 廃墟と化した家屋。腐乱して悪臭を放ったり、手足のもげたりした遺体。呆然と瓦礫の中に佇む老女。武装勢力を警戒して路地に展開するイスラエル軍兵士。地獄絵が広がっていた。そのとき、英国人記者が突然、顔面蒼白になり、倒れて痙攣した。銃弾に当たったのか。瓦礫がヘルメットを直撃したのか。状況はすぐにはつかめなかったが、外傷はないようだ。このときほど、自分の非力を痛感したことはない。カメラを手に仕事をする振りをした。悲惨な状況を目にする心の余裕がもはやなかった。同行した通訳は人工呼吸をするなど冷静な対応を見せていた。助けを求めたイスラエル軍兵士の与えた薬の効果もあり、一命は取り留めたようだった。本人によれば、アフガニスタンで目にした遺体の山がフラッシュバックになって脳裏に蘇ってきたのだという。その約1年後に通訳と会った際、あの彼は、医師の助言もあり、ジャーナリズムの世界から足を洗ったと聞かされた。
難民キャンプ
復興進むジェニン難民キャンプ
 ジェニン。今でもこの響きは自分にとって特別の意味を持つ。多分、一生、問いかけ続けていくことになるだろう。イスラエルはパレスチナ側が遺体をプロパガンダに使うために放置したと主張する。戦争では激しい情報戦が繰り広げられ、メディアが伝える情報は全体の一部に過ぎない。ジェニンは、人々の生死や報道の在り方などを考えさせられる大きなきっかけとなった。そのジェニンにおじさんとの出会いもあり、2年ぶりに訪れることができる。自分でも随分不精だと思うが、2年ぶりの訪問に感慨深いものを感じた。
 おじさんはいかにも人が良さそうだ。なるほど、ムハンマドさんは村のイマーム(イスラム聖職者)を務めているという。西岸でもエルサレム周辺は、不毛の地が広がっているが、西岸の北部は意外に木々も多く、農地が目立つ。幾つかの町や村を抜け、ムハンマドさんの村に到着した。イスラエルとの境界に接するジャルブーン村には、例の分離フェンスが走っていた。ムハンマドさんの家のすぐ裏50メートル付近をフェンスが通り、オリーブ畑の一部もイスラエル当局に接収されたという。
食事
 その後は地元有力者の家や家族、親戚、友人の家々で大歓迎を受け、コーヒーやチャイを何杯いただいたことだろうか。ムハンマドさんは自宅で鶏や羊を飼い、昼食には羊の乳で作ったチーズとヨーグルト、オリーブ、トマト、パンをご馳走になった。ジェニン近郊の村だから生活は大変のだろうと思っていたが、ある意味で期待は裏切られた。ヨーグルトなど今まで食べたこともないようなすっきりとした味わいで、とびきりの美味に酔いしれた。子供が6人もいて、家禽が庭を走り回り、季節の果物がたわわに実る。家は日本と比べたら大きいし、豊かな人間関係も羨ましいほどだ。紛争で厳しい状況に置かれているのは承知していますが、と前置きした上で、「日本人も羨むような生活ですが、満足していますか」と問うたところ、「サンクス・ゴッド」との答えが返ってきた。パレスチナ人の自宅が大きいのは、子沢山で子供たちが独立して結婚するまでは親と一緒に住むことが多いためであるという。自宅に戻ってインターネットでジャルブーン村のことを検索すると、分離フェンスの影響で村民の栄養状態の悪化が見られることや、銃撃事件に関わったパレスチナ人の家がイスラエル軍によって爆破されたこと、激戦の最中には16歳から45歳までの男性が一時拘束されたことなど、長閑に見えるジャルブーン村もパレスチナ紛争とは無縁であり得ない事実を知った。
 夜には、ヤギ一頭がさばかれ、そのキブデ(レバー)が食膳に上った。遂に解体のその瞬間を目にしてしまったが、なかなか衝撃的であった。今回のヤギは、前の子羊とは異なり、体重89キロの巨体。大人3人に押さえ込まれ、首にナイフを入れられ、鮮血が飛び散るが、苦しそうに3分ぐらいもだえていた。
 ムハンマドさんは、またいつでも遊びに来いと言う。翌日、ジェニン難民キャンプを訪れた。国連当局者によれば、再建事業はピークにあるといい、9月には完了する。破壊を逃れた建物には弾痕が目立つ。今もイスラエル軍がしばしば侵攻する。ジェニン難民キャンプは再建されるが、パレスチナ紛争は混迷の度を深めている。難民キャンプが改めて戦地となり、また破壊されないとも限らない情勢だ。  ナブルスのクナーフェは味わえなかったが、過酷な状況の中でもパレスチナ人たちは彼らなりの生活を続けており、クナーフェだけが残された甘さではないと感じた。しかしながら、ジェニン近郊のイスラエル軍検問所を通り抜け、近代国家イスラエルの整備された道路を走る時、隣人であるユダヤ人とパレスチナ人の置かれた環境のあまりの違いを理解するのにいつもながら苦しまされた。
●聖地エルサレムの素顔に出会う27
「やっぱり醜悪なバカの壁」


2004.4.6
 イスラエルはパレスチナ過激派の侵入阻止を狙って分離壁を築き上げている。時代錯誤とは言え、市民を守る壁の存在は仕方がないのかなあと思う面もある。問題なのは帰属係争中のヨルダン川西岸に築き、境界線の既成事実化を図ろうとするイスラエルの姿勢である。パレスチナ人の村や町を分断し、彼らが先祖から受け継いできたオリーブやブドウの木がブルドーザーになぎ倒され、少雨で植生に乏しい微妙なバランスの上に成り立った生態系を脅かしている。ただ、壁が完成した地域周辺でテロが減っているのは事実のようだが。  
 イスラエル、パレスチナ双方にとって紛争は深刻なのだが、最近、壁は人間同士の醜悪な争いの産物に過ぎないと改めて痛感させられる発見があった。当たり前だが、鳥にとって国境や壁の存在は意味を持たないのだ。  
ゴールドフィンチ
売られているゴールドフィンチ
 随分前、イスラエル紙に「エルサレム周辺のゴールドフィンチが絶滅状態に陥っている」との記事が載り、切り抜いておいた。その鳥は保護鳥であるにもかかわらず、綺麗な鳴き声でさえずることが災いし、愛好家の間で数百シェケル(1万円前後)で取り引きされているという。エルサレム近郊にいた数十羽の群れも、乱獲や住宅開発などによって姿を見せなくなったと報じられていた。イスラエルは、森林密度の高い日本と違って探鳥にとっては、好条件が整っている。森林地帯や砂漠地帯、果樹園など環境や植生の変化も大きく、木々が密生していないため、容易に鳥を見ることができるのだ。イスラエルで探鳥観察を始めて半年余だが、既に50種近くを確認している。だが、未だゴールドフィンチは見たことがない。伝えられたように、絶滅してしまったのだろうか。  
 とんでもない。いるわいるわ。確認した範囲では、イスラエルのペットショップでゴールドフィンチを扱っているケースはないようだが、東エルサレムをはじめとしたパレスチナ側のペットショップや飲食店の軒先、馴染みの散髪屋など最初に発見してから約2カ月の間に50羽近くも発見した。どうやら、イスラエルで保護鳥のゴールドフィンチの捕獲も、パレスチナでは法律に抵触しないらしい。そもそも動物保護法などがあるかどうか疑問だが。価格は1羽5000円から1万円程度。鳴き声の良し悪しで価格が決まるそうだ。パレスチナのペットショップ店主に聞くと、地元で捕まえたものだという。これだけ捕獲されたら、エルサレム周辺からも消えるはずである。 ホービー
ホーピー、アラビア語ではホドホド
 ただ、紛争地で鳥を捕まえるのは命がけだ。時々、ガザ地区などで子供が境界線付近の立ち入り禁止区域に入り、イスラエル軍兵士に射殺されたというニュースが伝えられる。子供は捕虫網を持っており、鳥を捕っていたという。こんな悲劇が本当にあるのかなと思い、ガザに取材に行ったついでにガザ市内にあるペットショップをのぞいてみた。地元のパレスチナ人によると、休日の金曜日に鳥の大きな市が立つそうで、訪れたのは土曜日だったためか、ペットショップを含めて野鳥らしい鳥は売られていなかった。店主に話をうかがうと、この3年間で鳥を捕っていた子供など10人がイスラエル軍に撃たれて死亡したという。人数の真偽はともかく、鳥を捕っていた子供が撃たれて死亡している事実には疑いがないようである。  
 イスラエルで保護鳥に指定しても、接したパレスチナで乱獲していたら絶滅の危機に瀕するはずである。  
 壁はイスラエルだけの専売特許でなく、頭の中にも存在するとして日本でもブームとなった。紛争を「バカの壁」という一言で片付けるつもりは毛頭ないが、両者の言辞を見たり、聞いたりしていると、「バカの壁」が長年積もり積もって、とうとう本物の壁が出来てしまったようにも思われる。ゴールドフィンチの一件を考えたとき、壁や境界を越えて取り組むことの必要性を痛感するのだが、壁の建設は今も着々と進んでいる。
●聖地エルサレムの素顔に出会う26
「アラブの究極の晩餐」


2004.4.5
 アラブや中東という言葉がメディアに登場しない日はないといっても過言でない。もっとも近頃は、テロ組織アルカイダや自爆テロといった物騒な存在やニュースで世間を賑わせている。スペインの首都マドリードで起きた列車爆破テロやイラクでの反米テロなどアラブ諸国を拠点としたテロにより、無辜の市民の血が絶え間なく流され続けている。自らの肉体を投じてまで抵抗するアラブの人々とは、どのような存在なのか。
 イスラム教の聖典クルアーンでは、聖戦ジハードがイスラム教徒の義務とされ、殉教者には楽園が約束されている。イラクの占領政策は、世界で起きているテロの理由であるし、格好の口実にもなっている。フセインは確かに極悪非道の指導者であったが、アラブ人にとってイラク戦争は、アラブの地が外国軍によって土足で侵された許されざる戦争なのだ。超大国の米国が圧倒的な軍事力を背景に、まるで世界の裁判官であるかのような振る舞いを続ける限り、自爆や市民を標的としたテロという手段での戦いが終わることはないだろう。パレスチナ人から「日本の自衛隊がイラク占領の一翼を担うのはけしからん」と非難を受けることが多くなり、親日のパレスチナでも微妙に風向きが変化しているような気がする。
 アラブ人は誇り高い人々と言われる。アラブという言葉は、遊牧民を指すヘブライ語から生まれたとの説もあり、アラブ人とはアラビア半島に住む遊牧民を祖先とするようだ。自分の命は自分で守る。砂漠で困っている人がいれば、救いの手を差し伸べる。現代のアラブ人も当然だが、遊牧民である祖先の血を引いている。肉中心の食生活を見ていると、彼らが遊牧民であったことを強く感じさせられる。
 一方、太陽に恵まれた中東では野菜も豊富だ。普段は玄米菜食を基本とした食事なのだが、時々、肉が食いたくなる。学生時代には、「焼肉食い放題880円」などに惹かれ、外国産の安い冷凍肉をテニスの帰りなどに鱈腹食ったし、社会人になってからも、シュラスコというブラジル風の巨大な串刺し焼肉の食べ放題に通った。ただ、最近では肉に量よりも質を求めるようになり、日本から冷凍の地鶏を連れ合いが来るたびに持ってきてもらっている。放し飼いに近い条件で育った地鶏は、味が違うのだ。このため、工業製品のように作られた肉は、もはや口にできなくなってしまった。しかし、無性に肉が食べたくなることもあり、仕方なくオーガニックショップなどで買うこともあるが、満足できる肉に出会ったことがない。
解体中の羊
解体中の羊君
 こんな想いが通じたのか、遂に最高の肉にめぐり合った。究極の肉という言葉がぴったりかもしれない。先日のチーズに関する記事で紹介したマフムードのところで「事件」は起きた。
 数日前にマフムードから携帯に電話があり、シャイでも飲みにこないかとの誘い。ちょっと足を運ぶかなと思い立ったのが金曜日。金曜日は、サラリーマンの端くれとしては悩ましい日なのである。金曜日は安息日入りを控えたイスラエル側では半ドンであり、助手も支局に出勤してくるため、建前上は勤務日ということになっている。だが、パレスチナでは休みである。一方、土曜日はイスラエルが安息日で完全に休み、パレスチナは週明け。日曜日は日本で休みであるが、イスラエルでは週初めなのだ。都合よく解釈すれば、金曜日はパレスチナが休みなので自分の仕事も休み。土曜日はイスラエルが休みなので休日。日曜日も日本が休みなので当然休日となり、毎週3連休という幸せな生活になる。だが、「働きアリ」として世界に名を馳せる日本人の面目躍如というわけなのだろうか、邦人記者らは金曜日と日曜日は生真面目に働き、基本的に土曜日だけを休日としている。実際には土曜日もパレスチナ側で政治的な動きや事件があることが少なくなく、結局、ニュースに追いかけられて休みを逸することもしばしばだ。一方、不良サラリーマンを自称する身としては、ニュースがない限り、週休3日を実践している。この日もそんな不良行為が許される平穏な日だった。
 ヨルダン川西岸の低地に位置するオアシスの町エリコに近いマフムードのテント村。いつもなら羊や馬、山羊などが目立つだけで人影は少ないのだが、この日は、奥のテント近くで動く見慣れない人影。春だというのに強烈な太陽に焼かれた大地を踏みしめて近づくと、「こっちにこい」という若者や子供たち。近づいて見ると、丁度、首を切られた羊が鮮血を大地に染み込ませ、横たわっていた。
パレスチナ人は、祭や祝い事があると、羊を捌いて盛大に振舞うと聞いていたが、2年のエルサレム生活でも初めての体験であった。街に住むパレスチナ人は、さすがに羊丸ごと一頭を捌くという習慣を変えつつあり、われわれと同じように食肉店で肉を買うのが一般的だ。羊の丸焼きは、夢のまた夢かと思われた。
待ちきれない!
もう待ちきれない
 祝日の金曜日ということで、マフムードの親戚が西岸の都市ラマラから遊びに来ていた。彼らは完璧な英語を操り、父親は私立学校の教師、息子たちはパレスチナ自治政府などで働き、日本を含めた各国を飛び回っているという。ベドウィンのマフムードと、どうして都市住民の彼らが親戚なのかというと、親戚のうちの誰かがマフムードの家族の誰かと結婚したとのことだった。
 羊は、つるし上げられて皮をはがされ、みるみる小さな肉のブロックに姿を変えていく。羊は生後2カ月ぐらいで体重は20キロ弱。羊の解体は、からっとした広大な大地で行われるためかもしれないが、グロテスクな感じを受けない。親戚の希望で羊肉は、バーベキューとして供されるという。
テント村全景
マフムードのテント村全景
 柔らかな口当たり。羊特有の臭いや癖もなく、逆に牧草の甘みのようなものすら感じられる。脂は少なすぎず多すぎずという絶妙な加減だ。炭火で焼かれた肉は、モモやリブなど部位によって味わいが異なり、マフムードが言う「背骨の内側の肉」を頂点に、いずれも秀逸だ。レバーなどの内臓も捨てがたい。個人的には、こってりした骨付きのリブがいいと思う。肉のつけ合わせは、トマト焼きや玉ねぎ、それにピタパン、カブのピクルス。
 羊は、生後2カ月ぐらいが最高にうまいという。これから乳を出し、成長すれば、肉がもっと取れるのに生まれてから2カ月で食卓に上げてしまうというのは随分贅沢なことである。マフムードは、羊などの乳から作るチーズやバターを収入源としており、子羊を捌くのは特別なことだそうだ。
 羊は、近くで育つ雑草や栽培する小麦などの穀物を与えて育てられる。人工的なものは、一切与えられない太古から変わらない味覚である。ますます肉が店頭で買えなくなり、羊を飼うしかないと思っている。マフムードが「今まで食べたこともないようなものを食わせてやる」と誇りに満ちた顔で言い放った意味をかみ締めた。

羊が焼けるの待つ
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