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まちを歩けば
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 聖地エルサレムの
    素顔に出会う
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まちを歩けば棒にあたる
聖地エルサレムの素顔に出会う-page04
●聖地エルサレムの素顔に出会う20
「芳醇な完熟オリーブ」


2002.10.19
 エルサレムが約5カ月ぶりの雨に洗われた。朝夕はひんやりした空気が気持ちいい。近くの公園に散歩に出ると、緑色だったオリーブの実が紫色や黒っぽく色づいているのを見つけ、深まり行く秋の気配を感じ取った。冬になればエルサレムにも雪が降る。植物たちも冬に向けた準備を進めていた。
 オリーブ漬には色々な種類がある。緑色の若いものや完熟タイプの紫色、ワイン漬もなかなかいける。中でも完熟タイプは、柔らかくて芳醇な味わいが口に広がり、自分でも作ってみたい一品だった。オリーブが色づくのを待ちわびていただけに、一夜の雨によってオリーブが衣替えを始めたときの感動は忘れられない。
 この季節に備え、知り合いにオリーブの作り方を随分と聞き回った。ほとんどのイスラエル人は、「パレスチナ人の村の特産だから」などと余り詳しくない。パレスチナ人に聞くと、「お店で買えばいいじゃない。俺の家にあるから持ってくるよ」と、オリーブ作りを体験したいという思いが理解できないらしかった。
ようやくオリーブ漬の作り方を教えてくれたのは、エルサレム郊外にあるアラブ系イスラエル人の村アブゴッシュに住む歯科医ジャベル氏の友人で、オリーブ作りの名人。彼の作るオリーブ漬は既製品とは比べ物にならない味わいである。
オリーブ摘みをする家族
エルサレム市内の公園でオリーブ摘みをする一家
 青いオリーブ漬は、実が固いため、石で実にひび割れを作ってやる。ジャベル氏も、母親がオリーブの実を石でつぶした子供の頃の光景に目を輝かせた。「今じゃオリーブを自分の家で作っている人も少なくなったが、機械で一気につぶすオリーブよりも、人の手で一つずつ叩き割られたオリーブの方がうまいに決まっている」と、声を弾ませた。叩き割ったオリーブ1キロに対して塩100グラム、これに水と4、5個分のレモン汁、コショウ少々を瓶に入れ、3カ月ほど熟成させれば出来上がりだ。完熟のオリーブは、既に実の表面からオイル分が浮き上がり、柔らかくなっているため、石で叩き割る必要はない。本当に美味しい完熟のオリーブ漬は、自然落下した実で作ったものだという。
自宅の冷蔵庫には既に青い実のオリーブ漬が2瓶。完熟とは行かないが、黒く色づいたオリーブ漬が1瓶、食べられるまでの間静かな眠りに就いている。そのうち、完熟タイプも作る予定だ。
平和の象徴とされ、樹齢1000年以上にもなるオリーブだが、長引く紛争によって踏みにじられている。パレスチナ人の集落近くのオリーブ林がイスラエル軍の戦車になぎ倒されたり、過激派が身を隠す場所に使われるという理由で切り倒されたりしている。また、オリーブを摘むパレスチナ人と、ユダヤ人入植者が土地の権利をめぐって対立し、発砲したり、投石したりして死傷者が出る悲しい事件も起きている。
●聖地エルサレムの素顔に出会う19
「伝統産業にも戦争の波」


2002.10.16
 パレスチナ自治区のあるヨルダン川西岸は南北に細長い。アラファト・パレスチナ自治政府議長ら要人のいるラマラに行く機会は多いが、余程の大事件がない限り、エルサレムから離れているナブルスやヘブロンなどに足を伸ばす機会はほとんどない。特に情勢が悪化している現在、自治区各所にはイスラエル軍の検問所が築かれ、車で自由に行き来するのは困難だ。イスラム、ユダヤ両教聖地のマクペラの洞窟があるヘブロンは、陶器やグラスなどの伝統工芸で知られ、ブドウ畑が郊外に広がる風光明媚な土地にある。パレスチナの職人たちに会うため、ヘブロンに向けて車を走らせた。
 エルサレムから10分ほどでパレスチナ自治区に入った。舗装されたワインディングロードが続き、メーターは常に100キロ以上に振れている。ごつごつとした丘陵地帯に人の手の加わったブドウ畑やオリーブ畑が広がり、路肩を生活物資を満載したロバが行き交う長閑な風景が心をなごませる・・・。と言いたいところだが、この道路ではイスラエル人を狙ったパレスチナ人による銃撃事件が多発しており、快適なドライブとは言い難い。車に報道関係者であることを示す「TV」と大きく張ってはあるが、遠くから間違って撃たれないとも限らない。アクセル全開で走るのも銃撃を恐れてのことだ。
 この道の周辺にはユダヤ人入植地が点在するため、パレスチナ過激派は入植者を狙い撃つ。入植者の乗る車は、銃撃の恐怖のためか、例外なく猛スピードで追い越していく。軍用車両が目立ち、沿道の軍監視所の兵士が鋭い視線を投げ掛け、空気がピリピリしているのが分かる。出発から約40分ほどでヘブロン郊外の軍検問所に到着した。軍の若い兵士に断りを入れ、市内に入った。現在、自治区の都市は、軍によって分断状態に陥り、経済活動や市民生活に大きな支障が出ている。それでも、初めて訪れるヘブロンは、多くの人々が行き交い、活気のある町のように感じられた。
ガラスをふくイマットさん
ヘブロンのガラス工房で製作中のイマッドさん
絵付けをする職人
ヘブロンの工房で素焼きの器に絵付けをする職人
 市内に入ってすぐの所で陶器とガラスの工房を見つけ、見学させてもらうことにした。真っ赤に燃え盛る釜からガラスを取り出し、職人たちが休むことなくガラス作品を生み出していた。表面的には活気があるように見えたが、隣の販売所の商品にはホコリが積もり、客足が途絶えて久しいことを物語っていた。「商売はどうですか」と店主に向けると、彼はむっとしたように、「君が一番良く知っているだろう」と吐き捨てるように言った。確かにそうなのだ。紛争が激化して2年。店主によれば、この間、6カ月しか工房は稼動しなかったという。売り上げもさっぱりで、今後の見通しも立たないと訴えた。
 店の名前「ナトシュフ・ブラザーズ」が示すように、一族で工房を営んでいる。男性ばかり21人が働き、作品はパレスチナやイスラエル、ヨルダンなど各地に送り出されている。陶土はこの辺りでは採れず、スペインなどから輸入しているという。
 ガラスの方は、地元で回収された空き瓶などを再利用している。炭酸飲料やワインなどの瓶が色ごとに分けられ、敷地内に積み上げられていた。8歳からガラスづくりを続けているというイマッドさん(35)は「かつては日本人もたくさん買ってくれたが、最近はさっぱりだ。ここでは仕事にならないから、チャンスがあれば、米国や欧州で製作したい。一緒に組んで日本でやらないか」と話した。1日の労働時間は9時間前後で、出来高制という。作品1個に付き、2−2・5シェケル(50円から63円程度)の報酬を得るそうだ。1日100個も作るというから、5000円の収入になる計算だが、そんなに売れているようにも見えず、毎日働けるわけではないだろう。
 話を聴いている間も、手を止めることなく巧みな手つきでガラスを吹き、ベルを何個も作っていた。約1500度の釜から取り出したガラスを数十秒の職人技で形成し、500度の釜で6時間かけてゆっくりと冷却して完成するという。「集中するため頭の中がすっきりする」とイマッドさん。彼らの生み出す作品は、洗練しているとは言えないが、沖縄ガラスのように気泡が目立ち、色合いも青や赤、ラムネ色などがあり、やさしい気持ちにさせてくれる。一度は捨てられた瓶のかけらに命が吹き込まれ、ガラスが喜んでいるようにも感じられ、いとおしく思ってしまう。
●聖地エルサレムの素顔に出会う18
「地雷が守る甘いサボテン」

2002.10.1
 イスラエル・パレスチナには豊富な果物があるが、中でも珍しいのがサブラと呼ばれるサボテンにできる果実だ。エルサレムのマハネエフダ市場で名前も知らずに買って食べた後、実はサボテンの実だったと知って仰天した。
 実は最初、サボテンと同じ緑色だが、熟すと鮮やかなオレンジ色に変色する。収穫期は7月から9月に掛けて。細かい種が無数にあり、この種と一緒に果肉を食べる。サボテンというイメージとは裏腹に、冷やして食べると甘くてとても瑞々しい。下痢の薬にもなるそうである。
ただ、表面には無数の小さな棘があり、収穫するのは一苦労だ。棘があるとは知らずに手で思いっきり掴んで取ろうとしたら激痛が走った。手の指を見ると、数ミクロン単位の細かい棘が無数に刺さっていた。刺抜きでも簡単には取れず、数日にわたってチクチクとした激痛が続いた。地元の人は空き缶を受け皿に、この実を棒で叩いて収穫するそうだ。
 その特徴から、イスラエルでは、ユダヤ人をサブラのような人だと表現することもある。外見は棘があって醜いが、中身は甘くて魅力的という意味である。パレスチナでも、乾ききった大地に根を下ろした頼もしい姿にあやかり、生まれ育った故郷から何があっても離れない決意の象徴とされている。
サブラ

サブラの棘
 車で走っていると、このサボテンが乾いた大地に整列しているのを良く見かける。かつては土地の境界の柵として植えられ、泥棒やヤギなどが侵入するのを防ぐ役目があったという。 イスラエルが1967年の第3次中東戦争でシリアから占領したゴラン高原にも、このサブラがたくさん生えていた。道沿いにサブラを見つけ、張られた有刺鉄線をすり抜けて連れ合いが写真を撮っていた。ゴラン高原と言えば、未だに地雷が埋まっていることで有名だという事実が頭をよぎった。とはいえ、まさかこんなに道路に近い場所に地雷が埋まっているとも考えず、「ここには地雷があるよ」と脅かすつもりで声を掛けた。抜き足差し足で道路に戻り、辺りを見回すと、近くに「地雷。危険」と書かれた看板がたくさんあるのを発見。たくさんの実がなっているわけである。2人とも全身から血の気が引いていくのが感じられた。
地雷危険の看板
●聖地エルサレムの素顔に出会う17
「イスラエルで味わう日本食」


2002.9.23
 エルサレムは地中海沿岸にあるテルアビブからわずか車で約1時間の距離にあるのだが、つくづく山の町であるということを思い知らされた。基本的に鱗のある魚しか食べない厳格なユダヤ教徒の多い町であるため、店頭にはアジやイワシなど鱗のある魚ばかりが並ぶ。鱗が付いている魚に文句はないのだが、たまには鱗のないウナギや、イカ、タコの軟体系、カニや貝などの甲殻類も食べたくなる。冷凍ものは手に入るが、やはり瑞々しいものを味わいたい。
 エルサレムを離れ、テルアビブやイスラエル北部の町アッコを訪れる機会があった。潮風薫るアッコは、アラブ系住民も多く、鱗のあるなしにこだわらない鮮魚店が港町に軒を連ねていた。エビを見つけて感動していると、イカのほか、イスラエルで初めて目にするタコも堂々と売られているではないか。エルサレムで店先にタコやイカを並べようものなら、厳格なユダヤ教徒らによって、その店は確実に焼き打ちに遭うであろう。
 エルサレム市内では、ユダヤ教で食することが禁じられている豚肉を扱う食肉店で、必ずと言っていいほど冷凍ではあるものの、「禁制品」のエビやイカの類を一緒に商っている。市内のアジア食材店では、豚足が置いてある冷凍庫のガラスに紙が張られ、一見しただけでは豚足があることすら分からないようになっている。一昔前には、豚肉を商う店が襲撃される騒ぎがしばしば起きたという。
献立表の一部
イスラエルの食材を使った日本食がずらり
(献立表の一部)

 アッコでは、新鮮な魚に餓えている日本人の間で評判の鮮魚レストラン「ウーリブーリ」を訪れた。地中海に面した石造りの古い倉庫を改造したような趣のある白亜の建物に、心躍らせて足を踏み入れた。何種類もの魚料理を小皿で次々に味う1人150シェケル(約3800円)のコースを注文した。最初に運ばれてきたのはタイのカルパッチョ。生の魚とは、日本人の心理を巧みに付いた戦術である。オリーブオイルにレモン、ビネガーの効いたさわやかな味わいに感動。舌に残る味わいに酔いしれているのも束の間、燻製の薫りが食欲をそそるウナギの蒸し物が登場し、度肝を抜かれた。半年ぶりのウナギとの再会である。ウナギは蒲焼が一番という考えに変わりはないが、ふっくらと柔らかく蒸されたウナギを、蜂蜜とマスタードのソースで味わうのも地中海ならではの味覚だと思う。その後も、イカやエビ、カニなどの禁制品が並び、息も付かせぬコースに文句なく拍手を送った。
 アッコに行った前日には、某国の大使に招待され、本格的な日本食を味わった。日本で数年前に官官接待が大きな社会問題となった際には、もっともらしい批判記事を書いたものだが、うまいものを前にするとどうも気力が萎えてしまう。食事は最高の社交であるということにしよう。
 大使お抱えの調理人の料理は流石である。ホテルの板前やソニー社長付き調理人を経験した27歳の青年は、異国の地で食材の確保などに苦労しながらも、しっかりと日本の味を出していた。朝早く市場を回り、マグロのトロやタコなどの食材を確保する涙ぐましい努力に、自分自身の姿を重ねて大いに共感した。
 「イスラエルには見るべき食材がない」とは、この調理人の見解だが、まったく同感である。四季の変化や地方独自の食材に恵まれた日本とは比べものにならないほどイスラエルの食材に面白みはないのも事実であろう。とはいえ、限られた食材を使って日本食を作るしかなく、逆にこのような逆境が新しい想像力を育むことになる。着任して数カ月。「イスラエルならではの食材を取り入れて、新しい日本食の領域を開拓したい」と語る青年に負けてなるものかという気持ちを新たにするとともに、食の奥深さを改めて痛感させられた。
●聖地エルサレムの素顔に出会う16
「占領地に頼る飲料水」


2002.9.13
 水問題が多くの紛争の原因になっているという。記者の振り出しは少年時を過ごした滋賀の大津だった。日本最大の湖である琵琶湖を擁する滋賀は、余り知られていないが、水問題では世界でもリーダー的な存在だ。世界古代湖会議や世界水会議などが開かれ、世界の水問題に接する機会があり、いつかは世界の水問
題も取材したいと夢見たものである。
 イスラエルも水の確保は切実な課題であり、紛争の原因の1つともなっている。南北に細長いイスラエルは、北部のゴラン高原などから流れ出す水に大部分を依存。これらの川が流れ込むガリラヤ湖から同国南部に向けて巨大なパイプが敷設され、都市の飲料水のほか、南部の砂漠地帯にまで送られて灌漑農業に使われている。自分が飲んでいる水がどこから来るのか知りたくて、シリアからの占領地であるゴラン高原に向けて車を走らせた。
 標高800メートルのエルサレムから標高マイナス300メートル以上のヨルダン渓谷に一気に下る。死海へと注ぐヨルダン川は、砂漠の中の深い谷を流れ、水を目にすることはない。ヨルダンとの国境には有刺鉄線の張られた電子感知装置付きのフェンスが延々と続いている。時折、野生動物のセーブルなどが道路を横切る。パレスチナ人農夫たちが暑い日中を避け、早朝から農作業を始めていた。
 北部へと通じるヨルダン渓谷の道は、時々パレスチナの土地を通過する。荒涼とした砂漠の中、オアシスのような町が点在し、灌漑された畑が広がる。北部に行くにつれ、木々が増え、約2時間半のところにあるガリラヤ湖周辺は、花々が咲き乱れ、「イスラエルで最も美しく天国のよう」(地元女性)だった。さらにゴラン高原に行くと、気持ちのよい高原の風に頬をなでられた。ここはワインの産地でもあり、水と太陽に恵まれた地なのである。
ヨルダン渓谷の牧夫
ヨルダン渓谷の牧夫。一家でヤギを追っていた
廃墟と化したモスク
ゴラン高原にある廃墟と化したモスク
取水工場と集落
レバノンの取水場工事現場と背後に広がる集落
 軍関係者の案内で水源の1つであるハズバニ川近くに足を運んだ。最近、ここで紛争の火種がくすぶり始めた。隣国レバノンがこの川に巨大なパイプと水汲み用ポンプの敷設作業に着手、水の汲み上げ量を大幅に増やす計画を進めている。イスラエルは約束違反と猛反発。武力行使も辞さない強硬姿勢を見せている。
 村を国境が分断するラジャ村に入り、ハズバニ川を見た。乾ききった大地の中に清冽な水が滔々と流れ、周りには河畔林を形成していた。ただ、日本のどこの町にもあるような小規模河川であり、拍子抜けするほど小さいものだった。この水に頼るイスラエルの水事情の切実さが感じ取れた。レバノンは、ゴラン高原の
一部はシェバ農場と呼ばれ、かつてはわれわれが領有していたと主張。ラフード大統領は「イスラエルはシェバ農場の占領をやめ、レバノンの水支配権を明け渡すべきだ」と語っている。
 命の水だからこそ、命を賭けた戦争に発展するのだと思う。

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