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まちを歩けば
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 聖地エルサレムの
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まちを歩けば棒にあたる
聖地エルサレムの素顔に出会う-page05
聖地エルサレムの素顔に出会う25
「春告げるチーズづくり」

2004.3.15

 パレスチナ紛争の雪解けはまだまだ先のようだが、八百屋に並ぶカモミールやアーモンドの若い実などが春の訪れを告げている。今年も昨年に引き続いて20センチ近い積雪を記録したエルサレムのちょっと厳しい冬も終わりである。
 数週間前には、気温が30度を超えた日が数日続いたものの、このところ、朝の散歩のときに霜が降りていることから見て、相当冷え込んでいる。夏向けの体をつくろうと、体を冷やす「陰」の生野菜を食べ始めたところで急に冷え込んだものだから、足先や指先から体が冷えて仕方がない。パレスチナ紛争が物語る人々の気性の荒さは、このような激変する天候の影響も少なくないだろう。
 パレスチナの母親たちはこの時期、チーズの塩漬けづくりに1日を費やす。地元のアラビア語でジブナと呼ばれるチーズは、ギリシャの代表的なチーズであるフェタのようだ。何千年も製法が変わっていないといわれるフェタは、山羊や羊のミルクを固め、そのまま塩水に漬け込んだだけの非常にシンプルなもの。塩抜きしてそのままギリシャ・サラダに、ピザにしたり、パンに挟んだりと。
 なぜ、この時期にチーズづくりに追われるかというと、羊の餌である野山の雑草が豊かに生い茂る季節だからである。11月から始まる雨季のおかげでたっぷりと水を吸い込んだ大地は、春の訪れとともに緑の絨緞に衣替えする。エルサレムから世界で最も標高の低い町エリコにドライブすると、砂礫の山や丘がうっすらと緑色に染まり、その緑の海に漂う羊や山羊の群が一心不乱に草を食んでいるのを目にする。ビタミンたっぷりの青草をたらふく食べた羊は、栄養豊なミルクをいっぱい出し、昔からの知恵で人々はこれをチーズに変える。これを塩湯でして瓶詰めにすれば、1年は常温での保存が可能だ。
 支局のパレスチナ人助手の母親によれば、ジブナは随分と味に違いがあるそうである。牛の乳を混ぜていたりとまがい物もあり、彼女は毎年、エリコの顔見知りのベドウィンからジブナを買っているという。
 自分もとびっきりのジブナを見つけた。いつものようにエリコ近くに遊びに行くと、まるでスイスのように水の透き通った池に風景が映り、桃源郷と言っても過言でない場所に迷い込んだ。外国人が行くような場所ではないため、不審に思ったであろうイスラエル軍兵士に捕まり、「こんなところで遊んでいないでテルアビブに遊びに行けよ」との助言を賜った。山から流れる用水路の脇にはミントやクレソンが茂り、お茶になるカモミールが咲き誇る。「一体テルアビブに何があるの」と口答えするのをぐっと我慢。「警備活動ご苦労様」と若い兵士を見送った。
乳を搾るベドウィン女性
ロープを使って羊を整列させ、
乳を搾るベドウィン女性(エリコ近郊)

 近くにベドウィンのテントがあり、羊や山羊、馬にロバ、ラクダにニワトリとさながら動物園のような賑やかさに引き寄せられ、付近をうろうろしていると、思いが通じたのか、トラクターに乗ったベドウィンが通りかかり、「お茶でも飲みにこないか」とのお誘い。「待ってました」。そこで出てきたのが最高のジブナと自家製パン、シャイである。
動物園のような賑やかさ
 それから何度か遊びに行っているが、いつもその極上の食材に惚れ惚れさせられる。シャイをすすりながら片言のアラビア語でベドウィン一家の働き頭であるマフムードと語り合っていると、「コココココケーコッコ」とニワトリが鳴いた。すると、マフムードがにこにこしながらニワトリの方に歩いていき、今産んだばかりの卵を取ってきた。摘みたてのカモミール・ティーも最高だし、卵も濃厚な甘みとコクのある味わいだった。お土産にジブナをもらうこともある。きっと、子羊も最高だろうと思う。なにせ、自然の雑草を育ててそれを餌に、放し飼いにしているのだから。
 ここの卵を毎日のように食べたいし、ジブナも何キロか買って塩漬けにしたいと思う。でも、甘いお菓子を差し入れ、雑談を楽しみ、ちょっとしたお土産をもらう。こんなさりげない関係を売り買いという取引を持ち込むことで崩したくないとも思っている。「町のようにうるさくなくて、ここは最高だよ」と言うマフムードの生き様を見ていると、人生に必要なものは、もっと少ないのかもしれないと思う。美味しい卵やジブナを毎日食べたいという欲求も贅沢なものだ。逆に、ちょっとしたお金のやり取りで関係に変化があるとの考えも杞憂で狭量なものかもしれない。ジブナを何キロかマフムードから買うべきか、塩漬けづくりのシーズンは4月までだ。
●聖地エルサレムの素顔に出会う24
「薪窯で焼くチグリス川の鯉」


2003.5.25

 チグリス川には思い入れがあった。イラク戦がいつ始まってもおかしくなかった2002年12月、03年2月。イラクの隣国であるトルコを訪れていた。対イラク国境に近いトルコ南東部のジズレの町をチグリス川が滔々と流れていた。トルコはクルド人問題を抱え、イラク北部にも住むクルド人の独立機運が波及するのを恐れ、記者らに国境門を固く閉ざしていた。ゆくゆくはイラクに到達するチグリスの流れを見つめながら、もどかしさを感じていた。
 イラク戦終結後、ヨルダンの首都アンマンから2日がかりで到着したイラクの首都バグダッド。投宿先の目の前をチグリス川が物憂げに流れていた。トルコで見た流れよりも幾分水量を増し、トルコから数百キロの砂漠を越えて茶色の砂を大量に含んでいた。
 バグダッドの名物料理の1つに鯉料理がある。米軍に追われたフセイン大統領も好物で、外遊の際には鯉料理専門の調理人を同行させたという逸話もある。もし彼が米軍の猛爆を逃れて生存していれば、さぞかし鯉料理に恋焦がれていることだろう。
チグリス川
ホテルの10階から眺めた
バグダッド市内を流れるチグリス川
脂ののった鯉
40センチほどの鯉は脂が十分
 初めて鯉料理を味わった5月。まだバグダッドは闇夜に紛れて略奪者が跋扈する無法地帯だった。午後8時。運転手がバグダッドで最もうまいという鯉料理屋に入った。まずは水槽で泳ぐ鯉を自ら選ぶ。調理人がその場で網ですくい、背開きにして薪窯で30分以上にわたって焼く。鯉と言えば、鯉の旨煮や洗い、鯉こくなどが思い浮かぶ。鯉料理で有名な長野県の佐久地方には鯉の塩焼きを出す店もあるが、日本で塩焼きはメジャーではないと思う。
 しかし、皮の部分が真っ黒こげになるほど薪窯の強火で焼かれた鯉は、川魚特有の匂いはまったくない。塩と特性のタレを塗った鯉は、持参した醤油が必要ないほどのうまみがあり、手づかみで食べるその味は、鯉という川魚の印象を劇的に変えるものだった。
 卵や白子も一緒に焼かれ、店主は「精がつく」と手で股間が持ち上がるしぐさを見せた。黄色の卵は、たらこのような大きさで、味は極めて淡白だった。
 ただ、最初の店で食べた鯉は30センチ程度の小ぶりな大きさだったが、「鯉通」の同僚によれば、40センチ程度のものが脂の乗りも良く食べごろだという。その後にホテルで食べた鯉は40センチほどの大型で、やはり脂が乗っていた。砂漠の都市であるバグダッドの鯉料理はチグリスの賜物だろう。
強火で焼く鯉
●聖地エルサレムの素顔に出会う23
「日本にはパンがない」


2003.3.1
 「日本にパンはあるけど、やはりパンはない」−。これは友人のトルコ人の評である。パンがうまいともっぱら評判のトルコの人々を納得させるだけのパンが東京には少ないのだろう。というわけで、トルコ各地のパンを味わってみた。
 2月下旬、飛行機は雪原と化したイスタンブール空港に降り立った。地中海一体に低気圧が押し寄せ、トルコのほぼ全域が雪の衣に覆われた。ただ、残念なことにエルサレムも10年に一度と言われるほどの大雪に見舞われ、白銀の聖地を見る機会を逸してしまった。
 最初に訪れた首都アンカラは、日中の気温も氷点下にとどまり、アナトリアの大地は固く凍てついていた。街を散策してまず目に留まったのが、スィミットと呼ばれるリング型のゴマ付きパン。結構な大きさだけど、20円程度。出勤前のサラリーマンの朝食の定番だそうだ。冷凍庫のような町中のあちこちに、このパンを売る露天屋があり、シィミットを威勢良く積み上げている。普通、パンは冷えれば固くなると思われるが、このシィミットは実にうまかった。外側はゴマが若干焦げるくらいに香ばしく焼かれ、中は小麦のほのか甘みが感じられ、もちもち感が口中を幸せな気分にさせてくれる。ちなみに、エルサレムの行きつけのパン屋でもスィミットを見つけたが、味は別もの。やはりトルコはパンの本場なのだと痛感した。
ガスマスクの配布
アンカラ市内のシィミット屋さん。
忙しいサラリーマンに人気。

 次に訪れた町は南東部の中心都市ディヤルバクル。少数民族のクルド人が多数派であり、万里の長城に次いで長い城壁に囲まれた歴史のある町である。実はここを訪れるのは2回目なのだが、目的はあるホテルのパン。朝食に出てくるワラジのような巨大なパンなのだが、薪窯で焼かれたパンを再び窯で暖めて出してくれるのだ。外側は熱々、かぶりつくともっちりした感触のパンから小麦の香りをいっぱいに含んだ湯気が立ち上る。トルコにはチーズやバター、ハチミツなどパンに添える食材も豊富にあるのだが、このパンには何も必要がないと思えるほど完結している。
地下にある核シェルター
ラフマジュンを焼き上げるおじさん
 世界各地でも食の西洋化やファストフード化が進んでいるが、トルコも都市部でこの傾向が目立っている。ただ、うれしいことに南東部はまだまだこの波は押し寄せておらず、手作りの伝統が健在だ。特にクルド人は部族や家族の意識が強く、1つの飲食店を家族ぐるみで営んでいるケースも多い。ディヤルバクルで食べた南東部の名物料理、ラフマジュンもそんな家族の温かみが感じられる店で出合った。このピザパンは時間が勝負と見た。4人もの手にかかり、わずか数分で口に届くのだ。まず1人が小麦の薄い生地を作り、別の1人がそれに羊のひき肉や野菜を混ぜたペースを塗りつける。それを職人が大きな薪窯で何枚も同時に焼き上げ、別の店員が運んでくる。同行した通訳は、最初に頼んだ4枚では足りず、追加注文していた。
 クルド人と言えば、貧しさから逃れるため、難民船やトラックに隠れて不法入国したり、正規ルートを使ったりして大量に欧州に流れ込んでいる。農村部で出合った初老の男性に尋ねたところ、9人いた全ての子供たちが欧州に行ってしまったという。クルド社会の家族や豊かな人間関係を羨ましく思うのだが、現実は経済的な向上を目指して若者たちが次々と故郷を捨て去っている。家族で焼き上げるラフマジュンにも時代の波が押し寄せているのだと思う。
●聖地エルサレムの素顔に出会う22
「殺虫剤の恐怖」


2003.1.14
 子供の頃から匂いに敏感だった。タバコの煙や車の排気バスにむせ返り、できるだけそのような環境に近づかないよう今でも休みの時は都会から離れる。最近、自宅の観葉植物に小バエが大量発生したため、来る日も来る日も手で潰していた。ところが、仕事で10日ほど家を空け、久しぶりに帰ってくると、数万匹の小バエの死骸が床を黒く埋め尽くしているのを見つけてギョッとさせられた。窓を一部開け放っていたことから、夜の寒さで小バエたちは一気に凍死したらしい。
 観葉植物の無農薬有機栽培を目指し、植物を引っこ抜いて植木鉢ごとオーブンに入れ、280度の温度で焼いて退治した。しかし、1メートル近くもある大きな植木鉢はオーブンに入らず、これが発生源となって小さな植木鉢にも直に子バエが移り住むのだった。いっそうのこと、観葉植物を廃棄しようとも考えたが、せっかく種から育てたマンゴーやアボガドを捨てるのが惜しくなり、やむなく殺虫剤を買いに走った。
ガスマスクの配布
エルサレム市内のショッピングセンターで
ガスマスクを配布するイスラエル軍兵士

 さすがに、髑髏マークの危険という赤色のシールが張られた殺虫剤は強力だった。スプレーを撒くたびに、翌朝には数千匹の子バエが床を埋め尽くした。しかし、へき易したのがその匂いだ。部屋全体に化学薬品の臭いが充満し、お気に入りの雑誌にも液体が飛び散り、せっかくの楽しみの時間も台無しになってしまう。改めて臭いには滅法弱いということを痛感させられた。
 最近、イスラエルでは防毒ガスマスクを手にした人々を街でよく目にする。イスラエル人の多くは、ガスマスクを家に常備しているが、マスクの防毒剤などに使用期限があるため、イラク攻撃の可能性が高まっているのを受け、マスク配布所に行って新しいものと交換する人が多いためだ。
 イラクのフセイン大統領は1991年の湾岸戦争の際、イスラエルに39発のミサイルを撃ち込んだ。次に起きる戦争でフセインは、存亡の危機に立つことから、やけっぱちになってイスラエルを戦争に引きずり込むことを狙って、弾頭に生物化学兵器を搭載したミサイルを発射する可能性も指摘されている。
 幸いにも、住んでいるマンションの地下4、5階には300人収容の核シェルターがあり、生物化学兵器に対応した喚起装置も備えられている。イスラエル軍はレーダーで常に警戒しており、イラクがイスラエルに向けたミサイルを発射すれば、ミサイル着弾の3分前に警報が鳴ることになっている。化学兵器なんて飛んでくることはないし、大したことはないと高をくくっていたが、殺虫剤の臭いでくらくら来るのだから、これは逃げ遅れたら大変なことになると思う。
地下にある核シェルター
自宅マンションの地下にある核シェルター
●聖地エルサレムの素顔に出会う21
「リンゴのなる桃源郷」

2002.10.28
 やはり世の中には桃源郷があると思う。文明を否定するつもりはないが、コンビニや自動車といった交通手段などの人工物が少なく、都会の流れを基準とした時間という概念から懸け離れている方がいい。さらに、境界に位置していることも要素の一つだと思う。境界にあるとは都会という中心地から離れていることを意味するのだが、一方では別の世界にも接しているわけで、そこには外部と接触することで生まれてくる文化の多様性のようなものが存在する。ただ、時として境界とは過酷なものである。中心地から忘れ去られ、餓えに苦しむこともあるだろうし、外敵の攻撃を真っ先に受けて悲哀を味わうこともあるだろう。時には人為的な境界線が引かれ、分断状態へと放り投げられる。こんな歴史を背負った境界の人々は、人と人との結び付きが強く、悲哀を背負いながらも生きる力に満ちているような気がするのだ。  
 エルサレムから車を駆って約5時間。イスラエルが1967年の第3次中東戦争でシリアから奪取したゴラン高原の対シリア国境付近にも桃源郷があった。ゴラン高原北部には、少数民族のドルーズ人が住む。ドルーズ人はイスラエルやレバノン、シリアなどに約100万人が居住しており、そもそもは人為的な国境で分断されることなく生活していたはずである。ドルーズ人はアラブ系のイスラム教徒でありながら、イスラム教のコーランを聖典とはせず、輪廻転生を信じるなど他のイスラム教徒から異端視され、迫害の歴史を背負っている。イスラエルではアラブ系のパレスチナ人に兵役義務はないが、ドルーズ人はアラブ系でありながらも、戦闘に参加し、パレスチナ人から恨みを買っている。歴史に翻弄されている民族とも言えるだろう。  
収穫に終われる一家-1
リンゴの収穫に追われる一家
収穫に終われる一家-2 収穫に終われる一家-3
 ゴラン高原北部を旅していたとき、湖を探してリンゴ畑に迷い込んだ。そこは標高2000メートル前後のさわやかな空気に満ち溢れ、真っ赤に色づいたリンゴ畑が広がる桃源郷だった。リンゴ畑の写真を撮ろうとして車から降りたところ、リンゴの収穫に追われるドルーズ人の一家に呼び止められた。食事でもどうかというのである。  
収穫に終われる一家-4  一緒にリンゴの収穫を手伝った。エルサレムのマハネエフダ市場でリンゴが売られていたが、こんな暑い国でリンゴの栽培は無理だろうと思っていただけに、実際にこの手でリンゴが収穫できることへの感慨も深かった。孫からおじいさんまでが一緒に働き、家族の絆が深いことが感じられた。娘さんの1人は「雪が降ったらもっときれいになるわ。都会の生活よりずっと恵まれていると思うの」と、笑顔で話した。こんなに素敵な笑顔を満面に浮かべている人たちに出会ったのは久しぶりのことだった。
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